「面白ければいい」と「文系・理系の違い」について考えてみた

タイムラインを眺めていたら、かわんごとあずまんのやりとりが流れてきて、そのなかで「面白ければいい」と「文系・理系の違い」について、思ったことがあるので書いてみる。

もともとのやりとりはざっと次のようなもの。

kawango.hatenablog.com

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「面白ければいい」について

ネットでは「面白い」はすぐに計測できて PDCA を回せる

ここでいう「面白い」っていうのは、バズるってことにほぼ同義だけど、どんな内容の記事にどんなタイトルをつければアクセスを集められるか?というのは、インターネットの世界ではすぐに計測できる。その最適化の結果として、釣りタイトルが氾濫して タイトルであおる「釣り記事」排除へ グノシーが対策:朝日新聞デジタル という対策がとられるようになるくらい。そして、ネットの世界ではアクセス数は重要。

計測可能な指標を相手する

アクセス数が少なくてもいいコンテンツというのは存在すると思う。でも、少なくともアクセス数という指標がある以上、これを無視することはできない。ビジネスであれば「アクセス数」という指標に対して、いかに早く PDCA を回して最適化できるかが勝負を決めるから「面白ければいい」という態度はものすごくネットビジネス的。WELQ問題もこういうところから起きているんだけど。

こういった「PVを集めるコンテンツ」は、今は記事作成工場でバイトが書いているけど、短時間で明快なフィードバックを得られることによる学習のしやすさから、深層学習で実現することは比較的可能だと思う。 そのときに AI の書いた記事を「面白ければいい」と評価することはできるのか?

「文系・理系の違い」について

何を「理系的」とするか「文系的」とするかは、人によって違うから一概には言えないけど「計測可能なもの」を相手にするかという点が一つあると思う。理系は数値として計測できるもの、実験によってデータを得られるものを相手にしていて、文系は定量的ではなく定性的なもの、数字ではなくて概念を扱うという議論。

科学領域の広がりと科学信仰

ただ、科学史を振り返ってみると、ほんの百数十年前まで熱力学第二法則のような現代の教科書に載っているようなごく当たり前のように思える法則が未発見で、熱素説が信じられていたわけで、そこには不完全な理論だけではなく、測定に対する技術的な限界も存在していた。当時の科学は、見えないものをなんとか測定してそれに合う理論を何とかでっち上げる、という世界だったと思う。

それがやがて科学のカバーする領域が広がって、教科書に載っている内容に当たり前のように間違いが無くなって、科学というものが法則を演繹して世界を説明する道具だと思われるようになったのだと思う。

計測できないものに対する態度

計測できる領域=科学がカバーする領域が広がったことで、現代だと「理系」の領域が広がったわけだけど、それでもまだ人間が計測できない領域というはたくさん残されている。計測できないものは KPI やデータ解析の対象にはならないけど、見落とされていいものではないと思う。

熱学思想の史的展開〈1〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈1〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱力学の歴史は結構面白いです。サディ・カルノーは、ビル・ゲイツが尊敬する科学者の1人*1として挙げられています。